
ルネッサンスの三大巨匠のうち、ラファエッロとミケランジェロの作品はたくさんローマで見ることができるのに、レオナルド・ダ・ヴィンチのローマの作品はヴァチカン美術館所蔵の未完の「荒野の聖ヒエロニムス」(1480年頃製作)です。
聖ヒエロニムスという人は画家に好まれたモチーフのようで、赤い布とライオンをアトリビュートにして頻繁に目にする聖人の一人です。教会や美術館に子供たちと行くときは、退屈しないように「聖ヒエロニムスを探せ!」競争をさせていました。意外とどこでも見つかるのです。
この名作は、個人的には苦手なタイプの絵なのですが、それでも絵画館で並んでいる数多い名作の中でもひときわ目立つ不思議な魅力のある絵です。技術的にはレオナルドの解剖学の知識を発揮した素晴らしい作品なのですが、それよりも聖ヒエロニムスの苦悩の表情に目が引きつけられてしまうのです。
最近、レオナルド・ダ・ヴィンチに関する本を読んでいたのですが、彼は本当に謎めいた人物なのです。この絵は、ローマに滞在したことのあるスイス人画家(1741~1807)の遺言の中で初めて登場します。ところがその後行方不明になり、13年後に2つの部分に切り離された姿で偶然発見されたのです。頭が描かれた部分は靴職人の椅子の座面に、下の部分は骨董屋の金庫の蓋として使われていたという不思議な話。まさしく聖ヒエロニムスの苦難です。
歴史に「もし」はご法度ですが、1481年、シクスト4世がシスティーナ礼拝堂の壁画を制作するためにフィレンツェの画家たちをヴァチカンへ招待したときに、「もし」レオナルド・ダ・ヴィンチがメンバーに選ばれていたら、との思いは、彼の伝記を読むと必ず頭によぎります。ミケランジェロの最後の審判や天井画に加えて、レオナルドの「キリストの生涯」や「モーゼの生涯」がシスティーナ礼拝堂に描かれていたら、どれほどすごいことでしょう。
日記に「生きることを学んできたつもりだったのに、死ぬことを学んでいたらしい」という記述があって、それがこの未完の「荒野の聖ヒエロニムス」を描いた時期(1480年ごろ)と結び付けられています。
結局レオナルドは選ばれず、ローマとは反対のミラノへ行きますが、ローマへは旅行で訪れハドリアヌス帝のヴィッラなどへも旅をしたそうです。晩年、レオ10世の弟であるロレンツォ公によりヴァチカンへ工房を与えられ、3年ほどローマで生活しています。
当時のヴァチカンは、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂で天井画の製作に励んでいて、ブラマンテやラファエッロも活躍していたというのですから、何とも豪華な話です、天才がお互いに刺激し合って才能をさらに伸ばしていったのでしょう。
レオナルドはローマで研究の傍ら、ローマをまわり古代ローマの遺跡や真実の口などのデッサンをしていたそうです。天才も、私たちのようにローマを観光をしていたのかと思うと親近感が湧いてきます。そういう意味では、ローマは本当に永遠の都なのです。